- 2026年07月29日
- くすのきカイロプラクティックオフィス
先日、何気なくChatGPTに、
「市川ぼたんのファンクラブってあるの?」
と聞いてみました。
市川ぼたんの舞踊を観て、少し追いかけてみたいと思ったからです。
私は松竹歌舞伎会には入っていますが、歌舞伎座の本公演だけでなく、個人の舞踊会や小規模な会があるなら、そちらにも行ってみたい。
そんな話から始まったのですが、気がつくと、市川ぼたん、新之助君、菊之助君、團十郎、八代目菊五郎と、かなり本気の歌舞伎談義になっていました。
市川ぼたんを観て、考えが変わった
私はもともと、市川ぼたんが歌舞伎の舞台に上がることに対して、どちらかというと否定的でした。
歌舞伎は男性が演じるものとして受け継がれてきた芸能です。
そこへ團十郎が娘を舞台に上げようとすることに対して、
「そこまでして舞台に立たせる必要があるのかな」
と思っていたのです。
ところが、実際に市川ぼたんの舞踊を観て、考えが変わりました。
とにかく上手い。
ただ振りを間違えずに踊っているということではありません。
姿勢や手の使い方、視線、間の取り方、舞台上での見え方に、明らかに舞踊の才能を感じました。
あれを見たら、團十郎が反対を押し切ってでも舞台に立たせたいと思う気持ちは分かります。
親だから出したいのではなく、芸があるから舞台で見せたい。
少なくとも、私にはそう見えました。
舞台というのは不思議なもので、理屈で否定していたものでも、実際の芸を見せられると考えを変えざるを得ないことがあります。
私も、まさにその一人です。
今では、歌舞伎座の舞台だけでなく、市川ぼたんが個人の舞踊会を開くことがあれば、ぜひ観に行きたいと思っています。
市川ぼたんの大曲を観てみたい
ただし、市川ぼたんが舞踊家としてどのくらいのところまで行けるのかは、まだ分かりません。
舞踊が上手いことは間違いありませんが、本当の意味で力量が見えるのは、やはり大曲を踊ったときではないでしょうか。
『京鹿子娘道成寺』
『藤娘』
『鷺娘』
このあたりを、今後どのように踊るのか観てみたい。
『藤娘』は華やかさや可憐さが目につきますが、それだけでは持たない踊りです。
『鷺娘』は、後半へ向かうにつれて女の情念や苦しさが深くなり、踊り手の表現力が問われます。
そして『娘道成寺』は、踊りの技術、体力、品格、役の変化、舞台を一人で持たせる力まで、すべてが必要になる大曲です。
市川ぼたんが、ああした作品をどこまで踊れるのか。
そこを観てみたいと思わせるだけでも、すでに大したものです。
菊之助君は、すでに大曲を踊っている
同世代の菊之助君は、すでに『娘道成寺』を踊っているのを観ています。
若いうちに道成寺を踊るというのは、並大抵のことではありません。
振りを覚えれば何とかなるような踊りではありませんし、周囲も誰にでも踊らせるわけではありません。
それだけの期待と稽古があって、初めて舞台に立てる演目です。
しかも菊之助君は、舞踊だけでなく芝居をしていても落ち着きがあります。
子役らしい元気さだけで押すのではなく、役として舞台に立とうとしているのが伝わってくる。
同世代にこれだけの役者がいるのですから、新之助君は大変です。
正直、現時点では、
「新之助君、頑張れ」
としか言えないところもあります。
ただ、歌舞伎役者は子どもの頃の評価ですべてが決まるわけではありません。
むしろ、近くに同世代の優れた役者がいることを、バネにしてほしい。
将来、二人が大きな役を競うようになったときに、
「あの頃はずいぶん差があったのに、新之助もここまで来たか」
と思わせてくれたら、それはそれで非常に面白いと思います。
團十郎を再評価した『勧進帳』
若い頃の評価が、そのまま将来の評価になるとは限りません。
その一番分かりやすい例が、私にとっては團十郎です。
海老蔵の頃は、あまり高く評価していませんでした。
発声が鼻に掛かって聞こえ、何を言っているのか分かりづらいことがあった。
存在感はあるのですが、その存在感が舞台全体と調和せず、一人だけ前へ出てしまうように感じることもありました。
数年前に『勧進帳』を観たときもそうでした。
團十郎の弁慶は力が入りすぎ、独りよがりに空回りしているように見えました。
一方、富樫を演じていた当時の菊之助が非常に良かった。
弁慶を見抜きながらも、義経一行を通す富樫の心情がよく伝わり、私は弁慶よりも富樫ばかり観ていました。
『勧進帳』は、弁慶一人が目立てば成立する芝居ではありません。
弁慶、富樫、義経の三者の緊張感がかみ合って、初めて作品全体が立ち上がります。
ところが、昨年の八代目菊五郎襲名興行で、同じ組み合わせの『勧進帳』を観たとき、團十郎の印象が大きく変わりました。
とにかく良かった。
以前のように、自分の弁慶だけを見せようとする感じが薄れ、富樫との呼吸や舞台全体を意識しているように見えました。
力強さはそのままに、余計な力が抜けていた。
弁慶が前に出ることで舞台を壊すのではなく、弁慶が中心にいることで舞台全体が締まっていた。
あの『勧進帳』を観て、私は團十郎を再評価しました。
以前は良くないと思っていた役者でも、良くなれば評価は変わります。
役者を長く観る面白さは、そこにあると思います。
『鏡獅子』に見る役者の総合力
團十郎の成長を感じたのは『勧進帳』だけではありません。
『春興鏡獅子』もそうです。
『鏡獅子』は、前半の小姓弥生と、後半の獅子の精を一人で踊らなければなりません。
前半では、女方としての柔らかさ、品、繊細さが必要です。
後半では一転して、獅子の精としての力強さ、躍動感、舞台を圧倒する迫力が求められます。
どちらか一方だけできても駄目です。
まったく異なる二つの芸を、一つの作品の中で成立させなければならない。
その分、踊り手の総合力が問われます。
以前の團十郎は、後半の獅子には迫力があっても、前半の弥生に課題があると感じていました。
しかし、その弥生もずいぶん良くなりました。
本人も課題を分かって稽古を重ねたのだと思います。
ただ、それでも総合力という点では、立役と女方の両方を高い水準でこなし、舞踊にも優れる八代目菊五郎や勘九郎の方が上だと私は思っています。
もちろん、何を重視するかによって評価は変わります。
荒事の大きさや華を最も重視する人なら、團十郎を一番に挙げるかもしれません。
私は役柄の幅、舞踊、芝居の細やかさを含めた総合力を重視しているので、見方が違うのでしょう。
やはり八代目菊五郎が一番
現在の役者で誰が一番かと聞かれたら、私はやはり八代目菊五郎を挙げます。
立役もいい。
女方もいい。
舞踊もいい。
役によって見せ方を変えられ、どの分野でも高い水準にある。
何か一つだけが突出している役者ではなく、歌舞伎役者として必要な芸を、総合的に備えているように思います。
ただ一つだけ欲を言えば、父親である七代目菊五郎のようなユーモアや洒脱さが、もう少しあれば言うことがありません。
七代目には、舞台で力まずに観客を笑わせる軽さがありました。
芝居の中に少し遊びがあって、それが江戸歌舞伎らしい味になっていた。
八代目は技術的には申し分ありませんが、やや真面目で端正すぎるところがあります。
もっとも、あのユーモアや余裕は、年齢を重ねてから出てくるものかもしれません。
これからどのように芸が変わっていくのかも楽しみです。
AIと話したことで、自分の見方が整理された
ChatGPTと歌舞伎の話をして面白かったのは、AIが歌舞伎について何でも知っているからではありません。
むしろ、ときどき私の方が、
「それは少し違う」
「そこはそういう見方ではない」
と訂正することもありました。
ただ、相手がいることで、
「なぜ市川ぼたんを評価したのか」
「なぜ以前の團十郎を良く思わなかったのか」
「なぜ八代目菊五郎が一番だと思うのか」
という、自分の中にあった感覚を言葉にすることができました。
役者の評価は、人気や家柄だけで決まるものではありません。
また、一度決めた評価が一生変わらないものでもありません。
実際の舞台を観て、以前より良くなれば評価を改める。
期待していた役者が物足りなければ、厳しく見ることもある。
そして、若い役者がこれからどう伸びていくのかを見守る。
私は、そういう見方で歌舞伎を楽しんでいるのだと思います。
市川ぼたんが、いつか『娘道成寺』や『鷺娘』を踊る日が来るのか。
菊之助君と新之助君が、これからどんな役者になっていくのか。
八代目菊五郎に、父親のようなユーモアと余裕が加わるのか。
そして團十郎が、さらにどこまで芸を深めていくのか。
役者の成長を何年もかけて観られる。
それが、歌舞伎を長く観続ける一番の面白さなのかもしれません。
あと20年は歌舞伎を観続けたい。
いや、30年かな。
……。
その頃には、車椅子で歌舞伎座へ行っているかもしれません。
その時は、どなたか押してください(笑)。

